
KJDNKTK2025 進出アーティスト 企画書(中間報告時点)
JACKSON kaki
テクノロジーダンス:さるかに合戦 2
企画書 - あるいは作品のための論文の草稿
動画資料:
2024年5月5日
かつてなくダンスを自由に踊るための煙が立つ会 2024
「さるかに合戦」
概要
このダンスは、JACKSON kakiによるテクノロジーと身体を用いて、さるかに合戦を描くダンスパフォーマンス作品である。
2024年5月に披露した第一弾のさるかに合戦をアップデートした作品が「さるかに合戦2」となる。このダンスでは、日本昔話の勧善懲悪の二項対立の物語を用いながら、テクノロジーと身体が「戦う」ダンスを描いていく。さるかに合戦の物語で悪役とされる「サル」は、テクノロジーを用いて表現し、それに立ち向かう蟹や仲間たちを「身体」を用いて表現する。
このダンスの意義
この作品は、現代社会における「隠された身体」とテクノロジーを用いた表現を探求する、私のライフワークである。
「隠された身体」という概念は、1989年に養老孟司氏が著した『唯脳論』で提唱された考え方に基づいている。養老氏は、現代社会が過度に「脳化」し、合理性や論理的思考を重視する一方で、身体の働きや身体感覚、直感を軽視していると批判している。この傾向は、人間の本来的なあり方を歪めていると指摘されており、特に「暴力」「性」「死」など、都市や社会にとって不都合とされる身体が隠されていく現象を「隠された身体」と呼んでいる。
この作品は、このような「隠された身体」を取り戻しつつ、その身体をさらに隠していくテクノロジーと共に踊ることで、社会・身体・人間・テクノロジーの関係性を新たに提示することを目的としている。この試みの核心には、私が提唱する概念である**「脱臼的感覚」**がある。
**「脱臼的感覚」**とは、鑑賞者を従来の美的感覚や価値観から意図的に「脱臼」させることで、社会や人間のありのままの姿や本質を浮き彫りにする表現方法である(詳しくは「自由なダンスとは - 脱臼的感覚」の項目を参照)。この感覚は、観る者に新たな問いを投げかけ、既存の価値観や構造を解体する手段として機能する。
さらに、このプロジェクトのテーマである「自由」を表現するため、本作では「舞台表現」を西洋芸術史の文脈から問い直している。西洋芸術が持つ構造や規範を綿密に検討し、それに沿った舞台を構築する一方で、その秩序を大胆に破壊するような自由なダンスを創造している。このアプローチにより、社会が抑圧し隠してきた身体の存在を舞台上に顕在化させ、身体そのものとテクノロジーとの新たな関係性を追求している。
自由なダンスとは - 脱臼的感覚
ダンスは、身体を通じて文化、社会、哲学、感情を表現するものであり、舞台芸術の歴史において重要な表現手法の一つである。この『さるかに合戦』もまた、身体の動き、すなわちダンスを通じて作品が展開していく。
この作品では、人間(ダンサー)の身体を通じて、人間のありのままの姿、とりわけネガティブで排除されがちな性、死、暴力といった側面を前面に出し、醜さや困惑を伴うダンスを作り上げることを目指している。それは、ただ暴れ叫ぶような秩序のない動きであり、「果たしてこれが芸術として成立するのか」という問いを投げかけるダンスである。さらに、自分はこのような身体表現とテクノロジーを掛け合わせることで、社会・身体・人間・テクノロジーの関係性を「脱臼的感覚」に落とし込む新たな表現に到達できると考えている。
脱臼的感覚とは、鑑賞者が作品を鑑賞する際、一般的にポジティブとされる美的感覚(耽美や賛美、希望)に対して、あえてネガティブな状況や困惑、醜さといった排除されがちな身体を突きつける試みである。その結果、鑑賞者は「何を見せつけられているのか」と思考を揺さぶられ、従来の枠組みや価値観が脱臼するような感覚を覚える。このアプローチを通じて、社会や人間の本質を浮き彫りにすることを目指している。
テクノロジーを活用した表現は、身体や時間、空間を拡張し、壮大で幻想的な世界を作り出す一方で、鑑賞者を現実から切り離し、一時的な夢の中へ誘う傾向がある。しかし、本作品では、あえて社会・身体・人間・テクノロジーの醜さや困惑を強調し、鑑賞者に現実のありのままの姿を突きつけることを目的としている。
この考え方の背景には、坂口安吾の「文学のふるさと」における思想がある。坂口は、現実の人間や社会の本質を見つめるために、「モラルがない」や「救いがない」といった否定的な状況を受け入れることの重要性を説いている。
モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
(坂口安吾「文学のふるさと」 1941 青空文庫)
坂口の思想は、人間の孤独や無秩序を受け入れ、それを基盤として新たな表現を模索するという視座を提供している。
さらに、本作品において重要な視点として挙げられるのが「スカム」の概念である。「スカム(Scum)」とは、本来「泡」「かす」「ゴミ」といった否定的な意味を持つ言葉だが、既存の秩序や価値観への反逆精神や、破壊的かつ創造的な表現を象徴する概念として、現在でも注目されている。秋田昌美は、ノイズ・ミュージシャンとして「スカム」を実践しながら、その美学を通じて人間そのものに問いを投げかけている。
システムなき現代社会で快楽と退屈は紙一重だ。
(秋田昌美「スカム・カルチャー」 1994 水声社)
坂口と秋田に共通するのは、表現を通じて最終的に「人間」という存在に視座を置くことである。このような考え方を基盤に、身体とテクノロジーが舞台上で無秩序に動き回り、暴れ、叫ぶダンスをひたすら鑑賞者につきつけ、「何を観させられているのか」と、まさに脱臼したかのような感覚に陥らせることが目的だ。
このような無秩序な動きを「ダンス」と称するには、まだ弱いと考えた。ダンスは芸術の歴史によって構築されてきた表現である。「自由」な「ダンス」を考えたとき、ただただ無秩序に動き回ることは「自由」であっても、ダンスになりえないと自分は考えた。
では、なにをもって脱臼的感覚に陥る動きを鑑賞者に見せつけながら、「ダンス」を称することが出来るのだろうか。そこで着目したのが「舞台」である。芸術における舞台は、西洋の芸術の歴史と密接であり、オペラやオーケストラ、演劇など、古代から現代までに貫く芸術の歴史を築いてきた。このプロジェクトにおいても、品川・六行会ホールという歴史的な舞台で表現することが、あらかじめ制約されている。
そこで私は、あえてこの「舞台」の制約、つまり西洋の芸術の歴史を積極的に引き受け、作品の成立条件として取り入れる。自分の作品を西洋の芸術の歴史に位置付けながら、醜く、無秩序なダンスを踊ることによって、クリティカルに鑑賞者に脱臼的感覚を突きつけることが出来ると考えた。
まとめると以下の通りになる。
JACKSON kakiは「自由」な「ダンス」を以下のように作り上げる。
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西洋の芸術、歴史を積極的に取り入れ、その構造を作品の成立条件とする。
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その一つとして「舞台」のルールや構造を徹底的にリサーチし、遵守する。
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上記2点を踏まえたうえで、徹底的に「自由」を作り上げる。その自由とは、無秩序で醜さや困惑するような状況を作り出すことである。
以上により、「自由」な「ダンス」を作り上げることが可能だと考える。このプロジェクトでは、さるかに合戦を題材に、西洋のオペラやダンス、オーケストラのリサーチを踏まえて、ダンス作品を作り上げていく。
舞台における”西洋”― 作品成立条件
このダンスの作品成立条件を、西洋式の舞台芸術の歴史からリサーチと問い直しをする。現時点では、以下の要素によって作品が成立するようにする。
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物語(戯曲)
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音楽
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ダンス
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歌唱
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再演可能性
によって舞台が構成されるようにする。この構造のリサーチはまだ不十分であるため、現在進行形でリサーチを行う。
【物語】
舞台におけるダンスは、タイムベースドメディアの表現である。ダンサーたちがいま何を演じているのかを理解できるように、物語によって進行を把握できるようにし、身体表現そのものに着目させる。
創作した0からの物語ではなく、誰しもが把握できる簡易的な物語を採用する。そこで着目したのが、日本昔話である。日本昔話のなかでもとくに有名な「さるかに合戦」は、暴力による復讐劇であり、題材として適しているため、さるかに合戦の物語に沿ってダンスを作り出し、人間の隠された身体である性・暴力・死を描き出す。
今回は日本での作品のため、日本人を鑑賞者として対象としている。海外の人のために英語で物語の歴史と解説を記述したテキストは用意し、物語を把握してもらったうえで鑑賞できるように行う。
前回までのあらすじ -
さるは母親蟹をだまし、柿を与えず、むしろそれによって母親蟹を殺害してしまうのであった。母親蟹の死骸から子蟹たちが生まれ、その子蟹たちはさるへの復讐へと燃えていた。
今回のあらすじ -
復讐へと燃えていた子蟹たちは、臼・蜂・栗・馬糞の仲間たちをあつめ、さるに復讐をするのであった。子蟹と仲間たちは、さるの家へ忍び込み、互いの動きとともに、こらしめていくのであった。しかし、さるも負けじと形や姿を変えて、対抗していくのである。
しかし、最終的には子蟹たちの連携によって、さるは絶命へと追いやられてしまう。
こうして、子蟹たちは母親の仇をとることができたのであった。
さるかに合戦2では、このあらすじに沿って舞台上で、さると、かにたちの争いをダンスによって描いていく。
【音楽】
この作品では、舞台上で踊る人間に加えて、舞台下でノイズアーティストによるライブ演奏を奏でる。このダンスにおいて音楽を採用するのは、オペラを下地に考える。オペラにおける音楽は、物語を進行させ、感情を伝え、キャラクターを表現し、観客との感情的なつながりを形成する中心的な役割を果たしている。そのことを踏まえたうえで、この舞台では、ダンスとのライブ形式のセッションによって物語を拡張させ、鑑賞者にダイナミクスを与えていく。
【ダンス】
このダンスの登場人物は大きく分けて、「テクノロジー」と「身体」に分かれる。テクノロジーは「さる」を演じ、身体はそれ以外の役、つまりさると戦うかにと、その仲間たちを演じる。
さる役を演じるテクノロジーは、以下の装置を用いる。
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Apple Vision Pro
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モーションキャプチャー
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ディスプレイ
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スクリーン/プロジェクター
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照明システム(光)
上記のテクノロジーを用いながら、さるの動きや、さるの戦いを表現する。
テクノロジーがさる役であるのに対して、そのさるに対抗する役は「身体」が演じる。
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臼
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子蟹
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蜂
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栗
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馬糞
身体、つまり人間そのものが登壇し、各々の役割と物語に沿って、テクノロジー(さる)と戦いながら、ダンスを踊る。
そして、「自由なダンスとは - 脱臼的感覚」でも解説した通り、この作品におけるダンスは、無秩序で醜いダンスを踊ることを主軸とする。テクノロジーと対峙しながら、秩序なきダンスを踊ることで、身体や人間、そして社会、テクノロジーの関係性を描く。
【歌唱】
音楽と、ダンスに合わせて、舞台上のダンサーは歌唱を行う。それはノイズサウンドやダンスの一連の流れと共にセッション的に歌唱を行う。
【再演可能性】
西洋の舞台芸術にとって重要なのは、再演可能性である。つまり、この作品の上記4点をすべて楽譜、あるいはテキストなどによって記述し、再演可能にする。その方法はまだ定まっていない。
以上の4点は、現在の2025年1月現在での物語の成立条件と、この作品での表現の方法である。ここからリサーチや制作を通してよりアップデートしたり、変更を重ねていき、自分にとっての「自由」な「ダンス」を創作する。

