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テクノロジーとの接続がずらす身体── JACKSON kaki《テクノロジーダンス さるかに合戦》
権祥海
photoⓒToshie Kusamoto
JACKSON kakiの《テクノロジーダンス さるかに合戦》は、「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」のプログラムとして上演された。この企画の中心にあるのは、「自由にダンスを名乗る」という条件そのものであり、既存のダンスの形式や身体観から逸脱しながらも、なおダンスと呼びうるのかという制度的・概念的な問いが立ち上がっている。
kakiは本作を「テクノロジーダンス」と呼ぶが、それは技術の導入ではなく、接続によって身体が変質し、知覚がずれ、イメージへ転写される過程そのものを指す。ステートメントで語られるように、身体を前景化する羞恥から「別の方法としてのテクノロジー」に身を委ねた選択は回避ではなく、「隠された身体」という条件の露出へと転じていく。テクノロジーは身体を拡張するというより、知覚のタイミングそのものを少しずつずらしていく。

アルゴリズム化される民話
冒頭ではオープニングパフォーマンスとして松田修による「リビングメッセージ」が提示され、「テクノロジー?」という問いが赤い絵具の上に書き付けられる。この素朴な疑問は、以降に展開する過剰なイメージ生成に対して、持続するずれとして残響し続ける。
舞台はDJ/VJのライブ操作により、映像と音響がリアルタイムで更新される場へと変質する。複数のパフォーマーは異なる質感を保ちながらもこの更新系に組み込まれ、舞台全体は安定しない連鎖的な構造として立ち上がる。どこを見ているのか一瞬分からなくなる時間が何度かあり、視線だけでなく、判断そのものが少し遅れて追いついてくる。
猿と蟹の3DCG映像の後、kakiはVRデバイスを装着し、蟹の動作で猿アバターと対峙する。その視界はスクリーンにも投影され、身体の動きはアバターの運動と微妙な遅れやずれを伴いながら重ね合わされる。そこには単純な没入とは異なる、どこか居心地の悪い感覚が残る。攻防のやりとりも、洗練された戦いというより、反応がうまく噛み合わないまま続いていく試行のように見える。重要なのは物語ではなく、行為が環境との相互作用のなかで逐次的に生成されていく過程である。
この構造により「さるかに合戦」は固定された物語から切り離され、報復・加害・反撃が反復するインタラクションとして再編される。さらに舞台脇から飛来するドローンとkakiの衝突は、その関係性を抽象から物理的接触へ引き戻す。猿と蟹の関係は、非対称な力が反復的に発生する場として生成され続ける。
民話的要素は関係性を変換する装置へと置き換えられ、人間は猿にも蟹にも移行しうる可変的存在となる。時間もまた因果的な連続ではなく、入力と反応が循環するプロセスとして作動している。

神話生成と進化論的テクノロジー
中盤では不穏な音響のなかで猿の残像が反復し、十字架にかけられたkakiの身体はイメージとして投影され、生成AIによって断続的に別の像へ変換される。その姿は「イエス」としても認識される。映像として見ているはずの身体が、いつの間にか「何か別のものに見えてしまう」瞬間が繰り返される。その変換は滑らかというより、少しノイズを含みながら進行している。
ここで起きているのは、イメージ生成そのものが神話化していく過程である。猿や類人猿的イメージは、人間が猿・蟹・神へと接続可能な可変的存在であることを示し、進化論的想像力とテクノロジー的変換が重なり合う。存在はアルゴリズム的に再構成され、猿・蟹・人・神は映像変換システム内で可変的な素材として並置される。進化もまた、データベース的な置換の反復として現れている。
続く場面では、1人のパフォーマーが「さるかに合戦をやっています」「桃太郎をしています」と繰り返し発話する。その言葉は単なる状況説明ではなく、役割や物語の境界が流動化している状態そのものを露出させる。複数の物語は上演の内部で混線し、演じることと名乗ることの差異も曖昧になっていく。
同時に、劇場外で電動キックボードに乗るkakiの姿がライブ映像として映し出される。身体は舞台の内外を横断しながら分裂し、カメラを指差すジェスチャーはヴィト・アコンチを想起させる。その指差しは視線を反転させるように作用し、見る/見られるの関係そのものを表す。ここでも身体は猿・人・神と同じレベルでイメージ循環に組み込まれる。

スペクタクルの過剰化と内的破綻
後半はレーザー、クラブ音響、生成AI映像、SNS画面が連鎖的に重なり、舞台は徐々に視覚の環境そのものへと変質していく。「さるかに合戦」のモチーフである「栗・臼・蜂・糞」も因果関係を失い、意味ではなく断片として漂い始める。
レーザーとビートは劇場をクラブ的な空間へと変えるが、そこで起きているのは解放というより、リズムと光に身体が同期させられていく過程である。不気味なAI映像やSNS画面の挿入は、視線を「鑑賞」から「スクロール」へとずらし、イメージを持続する意味から切り離していく。その結果、イメージは出来事というより、流れていく断片としてしか知覚されなくなる。
上演の持続するノイズと強度の高い映像は、注意を分散させながら、「見続けること」そのものの疲労を前景化している。途中からは「見ている」というより、光と音のなかに身体ごと沈み込んでいくような感覚へと移行する。理解するというよりも、知覚のリズムに巻き込まれていく状態が続く。それがテクノロジー環境への応答なのか、あるいは圧倒そのものへ回収されているのかは確定しない。本作はその境界を固定せず、状態の揺らぎを持続させている。
ここで問題化されているのはスペクタクルそのものではなく、テクノロジーに付与されがちな洗練性や未来志向のイメージである。ノイズの反復や意味生成の遅延は、その内部に潜む揺らぎや誤作動、過剰な接続性を露出させる装置として働いている。提示されるのは最適化された技術像ではなく、破綻を抱えたまま作動し続けるプロセスである。

破壊・接触・名乗りの空転
終盤では、kakiのイメージが映し出されたモニターをパフォーマーたちが破壊する。この行為は身体のイメージ化装置への介入として現れる。モニターは身体・物語・暴力を視覚情報へ変換する装置であり、その破壊はイメージ化の条件への切断として読める。
しかしこの行為もまた、そのシステムの外部には立っていない。そこにあるのはテクノロジーの拒絶ではなく、その内部で生じ続ける揺らぎや崩壊である。
その後、ドナルド・トランプのアバターが映るスクリーンを背に、巨大な日本国旗に覆われたkakiの身体は、もがきながら次第に動きを失っていく。アメリカ的な経済・技術システムと国家イメージが重なる空間のなかで、身体は次第に自律性を失い、複数の記号に挟み込まれていく。
本作はそれを単純な政治的構図としては固定しない。身体はイメージが流通する回路の中で一時的に立ち上がる結節点として現れ、国旗・アバター・身体はそれぞれ異なる速度でずれながら干渉し続ける。そのずれは意味の整理ではなく、むしろ意味が安定しないまま並走してしまう状態として持続する。
続く場面では、聖歌のような音響のなかでkakiが担ぎ上げられ、再び身体を起動させるような身振りを見せる。そこには、演出や集団的操作に支えられながらも、崩壊のなかでなお身体を立ち上げようとする、かすかな希望が読み取れる。
カーテンコールでドローンにキスをする場面では、破壊と接触の差異そのものが攪乱される。監視と親和、暴力と愛着は分離されず、同一回路のなかで同時に作動している。テクノロジーはもはや対立対象ではなく、身体の振る舞いそのものを規定する条件として内在している。

そこで「自由にダンスを名乗る」とは、テクノロジーからの解放ではない。すでに条件づけられた身体が、その内部で「自由」や「ダンス」を語ってしまう運動であり、その言葉は意味を獲得する前に少しずつ摩耗していく。「名乗る」という行為だけが、遅延として残る。
そこでは身体もまた、単独で現れる主体というより、VR、生成AI、SNS、ライブ配信といった複数の回路を横断しながら、そのつど暫定的に立ち上がるものとして現れていた。観客の知覚も一つの出来事へ集中するというより、過剰な視覚環境、疲労、接触、破壊が連鎖する情報空間のなかを漂い続ける。
むしろここで露出していたのは、「自由にダンスを名乗る」ことの解放感ではなく、身体・主体・自由といった前提が揺らぎ始めた後でも、なお「ダンス」という言葉を呼び続けてしまう身体の状態だったのではないか。
その意味で《さるかに合戦》は、テクノロジー時代のダンスという新しい形式ではない。ダンスという語が遅延しながら残り続ける現象として存在している。その遅延は、すでに更新されている環境のなかで、なおも消えきらずに反復されてしまう振る舞いとして現れる。

権祥海
現代美術と舞台芸術を横断するキュレーションや執筆活動を行う。パフォーマンスにおける共集性や、個人と共同体をめぐるトランスナショナルな社会実践をテーマに研究・企画を展開。東京藝術大学大学院 国際芸術創造研究科 アートプロデュース専攻 博士課程修了。主な企画に「日常のコレオ」(東京都現代美術館、2025年)、「Stilllive 2024:Kinetic Net」(クリエイティブセンター大阪[CCO]、2024年)など。

